上海交響楽団(2)その歴史
上海交響楽団(以下SSO)の歴史は長い。定義にもよるが、実はベルリン・フィルよりも長いのだ。
ジャン・レミュザ(Jean Rémusat:1815-1880)はもともと名フルーティストだったが
1860年代頃から上海に住んでいたらしい。非常に不思議だが。
1879年にレミュザを中心に管楽中心の「上海パブリックバンド」が結成される。租界には委員会Municipal Council)が必要となるが、中国語ではこれを「工部局」と訳した。よって、「上海工部局楽隊」が中国語訳。
何とバンドメンバーが殆どフィリピン人であった。
租界は、初期は現在のサラリーマンが単身赴任で行くような場所であったため音楽家などいるはずもなく、レミュザはまず香港、マカオでメンバーを探したが見つからず、当時西洋音楽が浸透していたフィリピンまで行って集めてきたという。
1906年になると、メンバーはドイツ人が増える。指揮者もルドルフ・ブック(Rudolf Buck)に。1914年、第一次世界大戦に参戦する団員も出て、日本軍と戦い、死者1名、捕虜4名発生。捕虜はその後日本へ。
1917年~1921年にかけ、ロシア革命。革命を避けて来たロシア人が上海へ。音楽家も多数含まれた。
1919年、マリオ・パーチ(1878-1945)が指揮者に就任
1922年、「工部局交響楽団(Shanghai Municipal Council Symphony Orchestra)」と
改称。この後訳20年間は非常に充実した期間となる。
1936年には近衛秀麿が客演、1942年には朝比奈隆も客演しているが、日本のオーケストラよりはるかに優れていると証言している。なお、朝比奈隆は1996年にシカゴ交響楽団へ客演した際、シカゴの中国人ヴァイオリン奏者から、師から1942年のことを聞いていましたと言われ、印象に残っていると言っている(この師が誰なのか私には特定できる力がない)。
1942年、オーケストラは日本の管理下に置かれる。名称「上海交響楽団」。
日本は、日本管理になってからレベルが落ちたり活動が鈍ったりしてはならぬとして、活動は却って盛んになる。
1945年、李香蘭公演なども行われるが、8月日本敗戦、国民党が接収し、「上海市政府交響楽団」。
1950年、黄貽鈞(1915-1995)が中国人初の常任指揮者に。
黄は1938年に工部局交響楽団に入団、最初期の中国人団員の一人。しかし1941年に太平洋戦争が起き、日本軍が租界に侵入してくると、怒りの余り楽団を脱退。
1946年に楽団に戻っているが、1956年に「全国先進生産工作者」として表彰、1957年にやっと共産党員になっている。
この間、大変な苦労があっただろうことは容易に推察できる。
58年から大躍進政策、66年から76年まで文化大革命。この間黄はどうしていたか。
詳細は現時点では私は調べていない。
1960年に<淡水養魚>という教育用映画の音楽作曲(他にも作曲多数)、
1962年には<中国音楽家協会上海分会>の副主席。
映像を探すと、読売日本交響楽団を振ったものが出てきた!
リスト/前奏曲
全く無理のない自然な演奏だが遅緩もない。1981年にはベルリン・フィルにも客演しているとのことだが、派手さは無いが立派な演奏だと思う。
撮影は恐らく1986年と思われる。
こちらは中国の動画サイトからなので不安な方はご遠慮願う。
有名な中国のヴァイオリン協奏曲/「梁山泊と祝英台」(Vn:藩寅林)
これは更に地味な印象だ。最近の、例えば水藍指揮のシンガポールSOなどの光彩陸離たる演奏とはだいぶ異なる。しかしポルタメントは濃厚で、これは昔のマーラー演奏などと似たような傾向なのだろうか。
なお、当時の上海交響楽団との演奏は、西洋音楽は見つからなかった。
録音時期不明だが、まあ、こんな感じということで…。
これも恐らく80年代だと思う。
上海交響楽団の歴史は日本のオーケストラ発展のそれとは大いに性質が異なる。
それは租界があったことが原因に他ならないが、そんな背景は今でも北京のオーケストラと違い、風通しの好いものを感じる。上海交響楽団に少しでも興味を持っていただけたら幸いである。
(参考資料)
榎本泰子/「上海オーケストラ物語」(2006年、春秋社)
榎本泰子/「上海ー多国籍都市の百年」(2009年、中公新書)
田村裕嗣/「キーワード30で読む 中国の現代史」(2009年、高文研)